輪るピングドラム 第24話(終)

感動の最終回。
しかし、やはりというべきか、直接的に「答え」は言わないような、そんな「もやもや」が残る最終回であった。
いや、ある意味では物凄く「判りやすい」話だ。
この物語は「愛」の話なのだ。「愛」ほど普遍的なテーマは無いだろう。
「愛」を様々なモチーフを使ったり、斬新な演出で語っている物語なのだ。
登場人物の名前や要所要所で隠喩されている「銀河鉄道の夜」も「愛」の話なのだ。
故に、ある意味では物凄く「直球」な物語だと言える。


「愛」故に、登場人物は「自己犠牲」的な行動に出る。
何故なら、「愛」とは「他者への共感」だからだ。
相手の立場になって考えること。
相手の痛みを自分の痛みを同じものであるとに考えること。
「すべてはひとつである」と考えること。
それが、「自己犠牲」であり、「愛」なのだ。
様々な解釈が出来るが、自分は「ピングドラム」とは「愛」のことだと思う。
ひとつしかない林檎を分け与えることが出来るのは、「愛」故だと思う。
呪いの炎に焼かれる代償を払ってまで他人の運命を「乗り換え」させようとするのも、「愛」故だと思う。
「運命の果実」である「林檎」は、「愛」の象徴である。
だが「ピングドラム」の本質は、「愛」ではなかろうか。


最終回で、「呪いの炎」とは「蠍(さそり)の炎」であることが判明した。
「蠍の炎」とは、「銀河鉄道の夜」の中でも屈指の名エピソードである。


このエピソードを簡単に紹介する。
小さな虫を殺して食べて生きていたサソリが、ある日イタチに見つかって食べられそうになる。サソリは懸命に逃げ、井戸の中に落ちて溺れてしまう。
そのときサソリはこう祈ったという。

過去に自分はいくつも命を奪ったのに、どうして私は私の体をイタチにくれてやらなかったのだろう。
そしたらイタチも一日生き延びただろうに。
どうか神様、こんなにむなしく命を捨てず、どうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私の体をお使い下さい。

それ以降、サソリのからだは真っ赤な美しい火になって、いつまでも夜の闇を照らしている……というエピソードだ。


このような描かれ方が、ピングドラムでも描かれている。
桃果は、「宮沢賢治の世界」を体現しているようなキャラである。他者の幸せのために、自らが文字通り「炎に焼かれる」のだから。


また、冠葉の行動原理も「他者のため」である。
幼い頃、自分だけが生き延びるのではなく晶馬も助けようとした。
真砂子の窮地では、身を挺して助けようとした。
陽毬を、自らの命を捧げてまで助けようとした。
すべては「自分よりも他者」という行動原理である。


苹果は、最初の頃は日記帳を「自分」の運命のために使っていた。
しかし、その日記帳は「他者」のために使われるものだったのだ。
多蕗に対する愛情も、「運命」という抽象的なものによって決められたものであって、真に多蕗を思ってのものでは無かった。
故に、中盤以降の苹果はまるで別人のように性格が変わる。
最終回では、陽毬を思って自らを犠牲にするほどである。
苹果の行動原理の違いは、「運命」か「他者」かで、大きな違いがあることがわかる。


眞悧は逆に、人間が嫌いで、行動原理が「利己的」であると思う。
冠葉に協力していたのも呪文が書かれている日記帳を燃やすためだし、他者が苦しんでいるのを楽しんでいるようだ。
そこに「愛」は無いだろう。眞悧が自称するように「呪い」なのだろう。
他者へ干渉するという意味では「愛」も「呪い」も同じだが、その効果は正反対だ。
眞悧の行動は、他者のためを思ってのことではない。そう見えたとしても、本当は利己的なものなのだろう。
故に、物語で桃果と眞悧が対立するのはよく判る。
桃果は「利他的」であり、眞悧は「利己的」だからだ。
眞悧が世界を壊そうとした理由は、「自分が人間が嫌いだから」という、利己的なものだ。
桃果の行動は、「自分を犠牲にしてでも他人を助けよう」という、利他的なものだ。
列車は、大勢の人を乗せて走る利他的なものだ。眞悧は列車を待つが、果たして列車はもう一回来るのだろうか。その列車には、乗客がどれくらいいるだろうか。


物語の結末は、冠葉と晶馬が自らを犠牲にして、陽毬が生き延びる運命へと「乗り換える」というものだった。
その世界では、冠葉と晶馬は最初から存在していない。
陽毬と苹果の記憶もすっかり変わってしまっている。
眞悧を滅ぼすことは出来ず、世界には「失われた子ども」がたくさん居るだろう。
冠葉と晶馬は、運命を切り拓いたのだろうか。
運命に殉じただけではないのだろうか。
陽毬が生き延びる運命を手に入れるためには、「愛」が必要だったのは確かだ。
それも、その「愛」を、輪さなければ実現出来ないものだった。
だから、残された人たちは、その「愛」を受けて、幸せを見つけなければならないのだろう。
桃果が、そして冠葉と晶馬が残した「愛」は、きっとこれからも輪り続けるのではないだろうか。
そんな希望の残るようなラストだったのではないだろうか。


全体としては、作画演出にとても力が入っておりキャラも個性豊かで、「生存、戦略ー!」という台詞等のキャッチーさ・話題性がある一方で、内容は文学的であり抽象的でありと、二重構造のような作品という印象を受けた。
画面が出てくるエネルギーやキャラ同士の掛け合い、ペンギン達の動きを見ているだけでも楽しめるが、深く考えようと思えばどこまでも掘り下げられるような、不思議な魅力に詰まった作品だったと言える。
ただ、「よく判らない」という批判があるのも頷けるような構成だったのは確かなんだよなぁ。
TVシリーズとして、2クールもののアニメとして、もう少し「すっきり」としたものに出来なかったのだろうか。
事実として、まだ作品内容について「もやもや」としたものが残っている。
特に、「銀河鉄道の夜」と「オウム事件」を絡めて語るという「ヤバさ」については、未だに自分の中で腑に落ちていない。
この「もやもや」を消すためには、もう一回初めから見返すとか、小説版を読んでみるとか、監督のインタビューを読んでみるとか、他の人の評論を読んでみるとか、自ら語ってみるとかしないと、消えないだろうなぁ……。
それでも、毎週楽しませてもらったし、このような作品に出会えたことは本当に幸せだった。
スタッフの皆様、お疲れ様でした。